糟屋武則のマイナー武将奮闘記

糟屋武則が日々の鬱憤を故郷加古川の紹介とその他で晴らすブログです。

自己紹介とか

さて、昨日挨拶はしたので挨拶は省きますね。

 

 

今日は自己紹介と糟屋家の紹介なんかしちゃおうかなって。

 

まぁ、ほとんどWikipedia読めば手に入る情報ばっかりだけど、所々小話も入れてくから許して欲しいなって。

 

はい、某は糟屋武則

通称は助右衛門だったり、真田丸平野長泰が何をトチ狂ったか裏切り者の名として上げた正之助も某の通称でござる。

官位は従五位下、内膳正。

当時はもう名誉職であった帝のご飯を司る役職です。

諱は関ヶ原の際に名乗ってたと思われる武則の他に

 

・宗孝

・宗数

・直雄

 

あたりが名乗ってた可能性高い諱。

直雄は後陽成院聚楽第行幸の際の随伴者の内に某の名として載ってて有名ね!

 

 

次は某の家族構成。

これがまた諸説あってややこしいの何の…。

とりあえず1番の有力説を紹介します。

 

実父:志村 なにがし

義父:糟屋 朝貞

母:小寺政職

義兄:糟屋 朝正(友正?友政?)

弟?:糟屋 助兵衛(諱はわかんない)?

弟?:糟屋 武政?

 

ざっとこんな所。

あとは歳上と思われる甥で義兄朝正の子、友員だったり助兵衛の息子は会津藩日置流道雪派弓術の祖である加須屋武成だったり。

 

現世に顕現した副作用的な感じで記憶が曖昧なので武則自身何が正しいのかよく分かりません。

 

うーん、記憶が曖昧って怖いね(他人事)

 

おっ!そこな御仁よく気づきましたな!

 

そう、某の母は小寺政職が妹でござる。

つまり、黒田如水殿の奥方である櫛橋光殿と義理の姉妹なんでござるな!!!

つまり黒田如水殿は某の義理の叔父。

 

黒田長政殿とは従兄弟関係になるんですぞ。

何気に凄いでしょ、知らなかったでしょ。

 

そんな縁故もあったり義兄朝正が如水殿と仲良かったりで三木合戦の折に某は別所方として討死することなく、羽柴家に仕官することになり七本槍となる端緒が生まれたんでござる。

 

しかも当時は播磨でも随一の有力家である別所に与力し、東播磨経済の動脈であった加古川を抑えておりました。

何気に糟屋家頑張ってたんですよ。

 

長い文章書いてて疲れた。

今日はこんなもんで。