糟屋武則のマイナー武将奮闘記

糟屋武則が日々の鬱憤を故郷加古川の紹介とその他で晴らすブログです。

三木合戦における糟屋家①

はい、お久しぶりです武則です。

 

Twitterでは今は加須屋 直勝って名乗ってるからあれだけど同じだよ同一人物。

 

 

今日はね、タイトル通り三木合戦における糟屋家の動向を触っていこうかなって。

 

 

これを読んでるみんなは三木合戦って知ってる?知ってるよね?

 

 

え?知らない?

 

仕方ないなぁ〇びたくんはぁ。

 

じゃあ三木合戦って何?ってとこから始めよう。

 

三木合戦とはね、別所長治率いる別所勢と羽柴秀吉を中心とする織田軍とのなんと足掛けやく2年に渡る悲惨な籠城戦のこと。

途中で1部が城出てなんやかんや野戦に挑んだりしたから完全な籠城戦ではないけど日本史上最長の籠城戦なんて言われてたり。

 

あとはあれかな。

 

 

「三木の干殺し」

 

 

これも有名よね。

 

 

これがどういうことかはネタバレになるので今は言いません!!!

 

 

 

では本題。

 

 

1577年に突如として従っていた織田に反旗を翻した別所勢。

別所方の国人衆として我が兄朝正は郎党を率いて三木城に入ります。

 

朝正の息子である友員と共にまだ元服前の某は三木城に入っています。

 

別所方の中では別所吉親や別所治定といった反織田パワープレー組の組下として活動する予定だった朝正に驚きの来訪者が。

 

 

そう、ギリの叔父である黒田官兵衛です。

当時は小寺官兵衛ですね。

 三木城内の調略にあたって官兵衛殿はまず、既知で縁戚にもあたる上、播磨でも有数の勇将であった我が兄朝正に声をかける訳です。

 

「玄蕃殿(朝正)!聡明な貴殿なら分かるはず、今織田を裏切るのは間違いですぞ」

 

「うむ、官兵衛殿の仰ることは重々承知しております…が、既に儂は別所にご恩をいただいている身ゆえ…」

 

「今はもう御恩だ奉公だと言っている時分ではありませんぞ、指揮を執っておられる羽柴筑前殿は玄蕃殿ならと相応の待遇も約束しておりますし!」

 

「そうでござるな…しばし時間をくだされ…」

 

 

なーんてやり取りがあったかどうかは知りませんが一応有力説ではこの様に黒田官兵衛による糟屋家に対する引き抜き工作があったとされています。

 

しかし…残念ながら忠義に熱い典型的播磨武者である義兄上は…寝返らなかったのでござる…。

 

しかし落胆する黒田官兵衛の下に1人の少年が現れます。

 

「…!?まさかお主助右衛門か??」

 

「ご無沙汰にございます義叔父上…」

 

「どうしたのだ1人で斯様な所へ」

 

「義兄上からの書にございます、こちらを…」

 

助右衛門と名乗るその少年が手渡した書には、朝正直筆でこの様な内容が書いてあった。

 

『別所家への恩義がある故、やはり我らは寝返りは能いませぬ…しかし、遣わせた弟助右衛門はまだ元服もしておらぬ部屋住み故安心してそちらへ向かわせることができまする。何卒、愚弟をお頼み申します…

                                 糟屋 玄蕃頭 朝正             』

 

「そうか…よく来た助右衛門、羽柴殿に紹介するからついてきなさい」

 

「はい、よろしくお頼み申します」

 

 

なーんてやりとりがあったかは知りませんが(2回目)この時の助右衛門少年が某にござる。

 

まぁ盛りに盛りましたがこんな感じで某は三木城を下り羽柴家へ仕えることになります。

 

詳しい経緯は不明ですが、この直後から小姓頭として羽柴家で取り立てられ三木城包囲網の内の支城のひとつである箕谷ノ上付城を任されたり、三木支城である野口城の攻略に参加したりとわりと重用されています。

 

できる子だったんだね某。

 

しかし残念ながら先程も書いたように義兄、朝正とその子友員は三木城に籠ったまま敵味方に別れてしまうことになります。

 

当時の糟屋家は別所与力衆とはいえ大きくない国衆には変わりありません。

家名存続のためには致し方ない事だったのでしょう…。

 

 

こっから先の話はまた次回!

 

なんかグダグダと長文になっちゃったので何書いてるかわかんなくなっちゃった。